感情と打算の境い目

最近Twitterでもかなりグチグチしてたところではあるんですが、仕事に関しつつも「人の思考」に繋がるお話になります。

個人差が大きい話ですので、あくまでも覚書程度に。

 

人には2種類のタイプの方がいて、

「感情で動くタイプ」「打算で動くタイプ」

とあるように思います。

 

「感情で動くタイプ」の方は衝動的、刹那的な思考が多く、

相手(第三者)の喜びのためなら、効率性をさておいてでも尽くすことを喜びとします。

 

「打算で動くタイプ」の方は長考型、達観的な考えの方が多く、

己の利益、第三者の利益が最優先、感情が赴くこともなくただただ最高のパフォーマンスで事をこなします。

 

色々な方がいます。本当に。

僕はそんな方々を相手にお仕事をしています。

考えることも多くあります。日々苦悩の連続です。

 

カメレオン男、今日も出勤です。

音ゲーに代わる趣味を

音ゲーっておそらく、もうそんなに長く出来ないんですよね。

 

まず、自分1人の家庭ではなくなるという事。

次に、お金がかかりすぎるという事。

最後に、もうこれ以上は上手くなれないという事。

 

全てを鑑みて、新しい趣味を夏の始まりあたりから探していました。

ダーツは趣味にするにはお金がかかるし、ボウリングも同じく。

リーズナブルで、健康的な事を何か出来ないか…と。考えてみた結果、ちょっと前に高まってやってた事をふと思い出しました。

 

カントリーサイン収集」

 

カントリーサインってご存知でしょうか。

ざっくり言えば、市章とかが載った市名の書いてある立て札です。

 

それを、公共交通機関を使ったり自転車使ったりして走り回りながら写真に収められたらいいかなぁ、とか思ってます。

 

 

仕事でもブログ書いてんのに自分の事でもブログ書いてるなんて、ホント変わってるなぁと我ながら。

【長文注意】音ゲーライフの覚え書き

かいつまんでちょいちょいとお話しして行く前に、音ゲー歴や経験した大きな出来事などを軽くお話し。

 

sakzと申します。

もう気づけばさくずさん、さくずやんと呼ばれる事も多くなりましたが、この名前そのものに読み方はありません。強いて呼ぶならあきです。

18年ほどでしょうか、音ゲーやってます。

 

理由はこの後詳しくお話しするのですが、僕には目指す音ゲーマーが地元におりました。彼は異様なしなやかさ、静けさと、裏腹に爆発的なスコア力をもって僕を響かせました。

その彼は僕の音ゲーライフを語るにあたって、一切外すことのできない方なのです。是非ともご紹介させて下さい。

 

僕は、音ゲー公式大会の全国決勝に2度出場しました。

片方はkonami arcade championship 2011、もう片方は2016年の第二回天下一音ゲ祭です。

これも僕にとっては大きな大きな出来事でした。これも詳しくお話しします。

 

また、おそらくご存知の方も多いかとは思いますが、僕は多くの機種を非常に(それはもうとても)長い間遊んでいます。

それも踏まえ、多くの機種の話が出てきます。読んで頂けるかたの中には1つだけの機種を追われてる方も多いかとは思うんですが、そこはすみません。ホントに。

 

では、時代を1990年代末期にトリップ。

クサイタイトルまでつけちゃうよ。

 

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音ゲーとの出逢い、DDRとの出逢い

 

僕は1989年生まれです。9月で27になります。

 

当時小学校2年生とか3年生とかだったのかな、DDRが社会現象になるほど流行ってた時期がありました。

その余波は確かに身の回りにも寄せて来てまして。同級生がたまたま家庭用のDDRを買っていて、お家に遊びに行った時にあのぷにぷにのマットと初めて出逢ったのです。

 

不思議な事に、「下から上に矢印が飛んできて、それに合わせて足元を踏む」ってだけの単純明快なゲームにもかかわらず、全くからきし出来なくてですね。

その友達はフラフラっとぷにぷに踏めてしまう訳です。それがまず羨ましくて羨ましくて。

 

それまでもゲームは確かに好きでした。でも、こんなに出来ないゲームが初めてで、しかも友達は何の苦もなくフワフワ踏めていて、メチャメチャ負けず嫌いに火がついた訳です。これが全てのはじまり。

 

友人宅にこもる訳にもいかず、次のクリスマスプレゼントにプレイステーションDDR、ぷにぷにのマットをサンタさんにお願いしました。

向こう数年自分からサンタさんに願った事はほとんどありませんが、これだけは何故か本気で頼み込みました。

 

手に入ってからは気が狂ったようにひたすら練習し、夜はアナコンで練習し、いつの間にか周りの誰よりもDDRが上手い子になれていました。

当時最強だった「PARANOiA」もクリアでき、やる事はやって目立つばかりの人になれると思い込んでいました。思い上がりすぎていたと気付かされたのはそこから数ヶ月後のこと。

 

 

DDRには、「SECRET」と書かれた隠しコマンドがありました。

そのコマンドのうち「ANOTHER譜面」をおおかたクリアしているお兄ちゃんがいる、という変な噂を聞きつけました。

 

早速紹介してもらい、お家に遊びに行くと一見同じDDR、でも何か知ってる譜面とは違う。エライ難しい。

2つ上のお兄ちゃんで、妹さん2人との3兄弟の方です。名前も覚えてません。でも、それからDDRをはじめさめがめ、筋肉番付の真似事、ベーゴマなど色んなことをして遊んだことだけは覚えています。

すごく速い動きで何か知らない譜面を踏んでいた、なんかわからないけど凄い。それだけで僕の心は「それやりたい」に変わり、攻略本を借り、コマンドを教えてもらい、早速試しました。

ここから高難易度の世界に飛び込んでしまったのです。

 

 

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・高難易度へのめざめ

 

ここから1年、ひたすら練習をし、そのお兄ちゃんより上回るためにANOTHERだけでなくMANIAC譜面まで全てクリアしました。

何よりも、なによりもMake it betterがもうホントに最後の最後まで大変でした。

 

でも、その頃にはもうだーれもDDRなんかやっておらず。

でももう自分の中では上達の楽しみを知ったしまったが故に癖になってしまい、3rd Remixを購入してもらった時のこと。

初めてゲームセンターに連れて行ってもらったのがDDR4thの時でした。

 

それまでアナコンで練習してきた僕にとっては久々の足踏みでした。レベル5ぐらいでゆったり余裕こいて踏むのが楽しかったんですけどね。

 

何を間違えたか、「Shooting star」って曲のMANIACを選んでしまった訳です。

単曲の最高難易度、しかもそんなに予習もしてない譜面。もう死ぬ気で踏みました。踏みながら「俺めっちゃ今かわいそうな子じゃない!?」とか思いながら踏んでました。

 

過去の経験が活きて、ギリッッッギリでクリアできてしまう訳です。

 

これを機に足でも高難易度に飛び込み、まずポケステでオリジナルコースを組み、そこには必ずShooting starと速ハブネバ、in the heat on nightみたいな曲名の曲と後1曲、その時練習したい曲を入れるようにして練習していました。

 

おかげでDDRはそこそこに出来るようになり、気づけば僕は中学生になりました。

 

 

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Beatmaniaが難しすぎたばかりに

 

中学生になると塾通いになり、その前後にゲーセンに寄る日々でした。

ある日、ホームからDDRがなくなった日の事です。

 

流石にゲーセン来て何もしねえのもったいないなぁ、あ、じゃあこれやってみようこの青いやつ!

Beatmania IIDX 10thでした。これも音ゲー人生に大きく影響を及ぼす結果となりました。

 

まず、最初の100円ではサッパリ意味がわからないんですね。アレ。

ホントにどうにも出来なくて、これがサンタさん第2号になったわけです。

 

その時買ってくれたのは専用コントローラーと5th。これも死ぬほど練習しました。

10thの終わりに始めたものの、次回作REDでは最初の段位認定で3段を取れるように。

で、ここで何を思ったか「Vって曲がかっこいいからクリアしたい」って思いに変わりまして。

3段が今のレベル10に無理やり特攻して、それはもう数知れぬ屍を築いていったのは言うまでもありません。

 

ところが、毎日毎日そればっかりやってると意外になんとかなるもんで、4段取ったのとほぼ同時期にクリアしてしまうんです。

譜面はほとんど同時押し、乱打は交互のところしか押せないし階段なんか手のひらでべちゃぁ!

すると、一回きり80%を超えてしまうんです。不思議なもので、ここで熱が下がるわけではなくすぐ次の目標に向かっておりまして。

「いつかone more lovely ANOTHER」をクリアしたい、って目標に切り替わってしまうわけです。ここは昔と変わってないなぁ。

 

ワンモアクリアにはまだまだサッパリ何も腕がついてきてなくて、まずは全体の腕を上げようと、REDの夏休みに宿題としてゲーセンでAAのハイパーをエキスパートで4回クリア安定させる、って夏休みの宿題を課して遊んでました。

結果としてはちゃんと出来てました。おかげで今でもAAは苦手です。(

 

次回作ハッピースカイでは僕は高校生になり、7段、8段と立て続けにクリア、9段はイナズマに一瞬引っかかりながらも並行してたポップンのおかげかすぐ克服して稼働終盤でクリア、その次のDistorteDではいよいよワンモア混じりの最高段位、10段に挑戦するわけです。

 

ワンモアは一筋縄ではいかず、まず10thを買うところからスタートし、オート動画をひたすら見たり譜面とにらめっこして押し方を考えたりあんみつを考えたりしてひたすら対策対策の数ヶ月でした。

そしていよいよワンモア。まず段位認定で抜け10段獲得、そのままイージー、ノーマルゲージでクリア。これがもうたまらなく嬉しくて、たまらなく心臓が躍ったのです。

 

ここでなんとも言えない次の壁にぶち当たりまして、なんとあろうことかこのDistorteDから最高段位10段の上が追加され、皆伝という名前で鎮座するようになったのです。

 

ショックでした。まさかこのタイミングで…。ホントにあの瞬間だけは忘れられませんでした。

当時ホームには異常に上手い方は多くいましたが、それでも皆伝は2〜3人しかいませんでした。それぐらいの難易度。

 

ただ、もう出てきたものはやるしかない。やるしかないと思ってまずは練習練習でした。ここで衝撃の出逢いがありました。

 

 

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・俺の知ってるBeatmaniaのプレーじゃない

 

黙々とやってると、やっぱり常連さんって結構見るんですよね。

僕はほとんど誰かと話す事もなくいたんですが、その中でも、1人だけ同じように誰とも話さない、それでも死ぬほど上手い人がいたんです。

 

後の僕のカードネームにも影響するほどなわけですが、まず彼は恐ろしいほどにビカビカグレを光らせていたんです。精密機械かなんかかと思いました。

しかも、驚くほどしなやか。静の字そのもので、矛盾すら感じるほどに感動的で、完成され尽くしたそのプレースタイルには僕はもう一瞬で虜になりました。

 

気づけばどっちが話しかけたでもないと思うんですが、すぐ打ち解けて話すことができました。

その人の名前はSAKIYA。その時知る情報はそれだけでした。

ありえない感動で、ありえない衝撃を僕に与えてくれた彼を勝手に(ホントに勝手に)師匠と心で定め、全てのプレースタイルは彼を基にコピーしていこう、と決めました。

5年ぐらい後に知るのですが、彼とは同い年だったのです(ホントに知らなかった)

 

プレースタイルをコピーするどころか、それまでカードネームをAKIで固定していたのを、

あろうことか彼の名前から貰ってこようなんてもはやストーカーも若干引くような事を考えて。

TROOPERSの中期からはSAKIYAから一文字もらってSAKI、でもこれは女の子みたいだなって思ってSをひっくり返してZにしようか、なんて考えてSAKZって名前にしたわけですよ。

だから、読み方とかないんです。さくずでもあきでもあきぺでもいいんです。お気に召すまま!

 

するとこれがまぁ被らないのなんの。すごいもんです。すぐにしっくりきました。

このころから携帯を持ち始めるようになり、ミクシィで繋がってはちょくちょく遊ぶ仲になり、ホントに可愛がってくれました。まだまだ可愛がってもらってるけどな…!(

 

 

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・初めてのライバル

 

SAKIYAはライバルというよりはホントに師匠で、全てにおいて真似たい理想中の理想中の理想な人です。ところが、それだけだとここまで来れなかったわけですね。

僕の音ゲーライフを語るにあたって、ライバル、盟友の話をしないわけにはいきません。

 

携帯を持ち、ネットの海に飛び込み、とある掲示板でオフの話が出たんですね。これも高校生の時。

初めての堺ラウンドワン。オフの中にいた方々は、四神としてまとまってみたり(僕は白虎だったのでいまでも「とら」と呼ぶ人がいます)、後々にチームとしてまとまります。

 

「チームカルピス」

完全に身内でしたが、ギタドラのレベルが異様に高く、僕が当時柿ぐらいだったにもかかわらず最底辺。炎どころかランカーがいるトンデモチームでした。(今でもポップンはaki@カルなのが名残です)

その中でも僕はデラの筆頭として頑張っており、後にその取り巻きから僕含め3人が並ぶように腕が伸びてきます。

 

TTT PUZZLE この2人とは幾度もスコア戦争をしました。

古川未鈴戦争」「レットジ戦争」「霜月はるか戦争」今語ってもこの3人なら全てが分かる戦争です。

 

ちょうど知り合ったのはこのころ、僕もよく住之江や堺に遊びに行くようになり、友人の幅が広がりました。

 

そしてやっぱり堺でのオフの最中。EMPRESSが稼働していた頃のことです。

なんと、このタイミングで皆伝を初めて取ってしまうのです。みんなが見ている中。冥のブインを抜けてピアノに行き着いてしまいました。

 

大歓声、めっちゃうおおおおおおおおおってしてくれました。今でも覚えてます。そのあとワンカル行ってぷずれが酒でベロベロなってたんです(

緊張と感動のあまりなきじゃくりながらピアノを危なげながら抜け、ここから皆伝としてのデラ人生が始まりました。

 

ライバル達も皆伝を取り、後々にこの3人は煮詰めるところまで相当煮詰めていくのでした…。

 

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jubeatで味わう人生初全国トップ

 

このころ僕は大学生になり、随分音ゲーの技術も伴っていました。

そのころ、新しい音ゲーとしてjubeatというゲームが始まるのですが、これがまたも大きな転機となります。

 

奇怪な形をした音ゲーが二条サープラに入荷し、それが全く新しい音ゲーだということ。

これがまた難しかったんです。ホントに。

 

見た目のインパクトは抜群なんですが、ランキングの制度が非常に特徴的でした。

楽曲スコアだけではなく、難易度3種類の平均スコアがランキングされているんです。これが僕の完璧主義的な面に響き、まず赤全譜面でSSを目指します。

このタイミングでランキングをリアルタイムで詰まっていく喜びを知ったのが全ての始まりでした。

 

全部埋めた段階で22位、スコアをジワジワ詰め一桁になり、ギガブレイクやインザネに苦戦しつつ、TOP10に入ったあたりから壁を感じ始めます。

ちょっとやそっとでは絶対にどうにも出来ないのもあって、とことん何回もやってスコアを詰めて行くスタイルになったのもこの頃です。

当時、エクセなんか出した日には大騒ぎでした。

何度でも言いたいんですが、僕は「ふがいないや赤と大都会交響楽赤の最速エクセだぞ」ってことです(違う

 

jubeat初代では夏休みに本気出して詰め、トップのOBAJUNさんをパスし、赤平均全1に。

感動しました。僕が全国で一番jubeatが上手いんだと、いちいち勘違いまがいの事を考えては幸せな思いにふけっておりました。

 

…結論から言うと、文字通りの3日天下でした。

Y.S-Yさんが下からものすごい勢いで追いかけて来ており、3日後に僕は全国2位に成り下がります。

 

なんと、ここでmixiで繋がっていたわいえすさんからメールが届きます。

聞けば、「大阪に来るから北心斎橋ラウワンで会わないか」とのこと。

驚きました。全国トップを明け渡した相手はどんな人なのか見てみたい思いもあり、是非にと返事をし、圧巻の安定感を見たわけです。

 

僕の運指は当時技術が周りであまり進歩していない割にものすごくよく組まれていたようで、

とにかくすごく色々聞かれたのを覚えてます。モチベーションは消えず、同じ大阪で活動しているTIMさん、EVERSNOWさん、SE2-NYA*さんと四大巨頭でjubeat初代からコピオスまでを過ごすのです。

このコピオスの時、僕は全譜面埋めをしていました。全国で20人めぐらいのところにいましたが、その頃に1つ大きな出来事が起こります。

 

 

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・kac 2011への挑戦

 

konami arcade championship。

20歳を過ぎた僕には一切縁のない話だと思っていましたし、なんならそこにいる人たちはみんながみんな僕からしたら画面の向こうの、まるで芸能人みたいな方々だと思っていました。

そのkacに、jubeatが入る事になったのです。

 

これには大騒ぎになり、わずかしかないチャンスだけれども掴みたい、と、オンライン予選を勝ち上がり、二次予選。

オムライス、防衛本能、ラスベガスの…なんだっけ、レベル9のテケテーテケテーなやつです。

 

朝10時からじっくりエクセ前提の勝負をし、2時間で3曲を沈めました。

すると、8人通過枠がありながらまさかの5位で突破してしまうのです。夢の全国決勝、初めて画面の向こうの人になれてしまったわけです。

 

公式大会ということもあり、友人も応援に来てくれました。ものすごい緊張感で、数百人の前でゲームをした時には指先が痺れ足はおぼつかず、アタマはクラクラと星が舞って大変だったんです。一生忘れられない陶酔感でした。

 

アーティストさんとも写真を撮り、最後にみんなで焼肉に行き、(その時はKRK.DSNさんが優勝した時です)充実した1日を過ごしたことを覚えています。

 

もう二度と、おそらくこんなことはないだろうな、と思いながらゲームを続けて、いつの間にか僕は25歳を回ってしまいます。

 

 

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・再び訪れた公式大会出場のチャンス

 

皆伝はもう10年ぐらい続いて取得し、ポップンも49が埋まり、ギタドラも両赤ぐらいまではでき、maimaiも13.7を超え、全体的にベテランクラスまで音ゲーは上達し、それと反比例するように地元にはもう同じぐらい多機種が出来る人はいなくなりつつありました。

 

そんな中稼働したのが「シンクロニカ」。

ホント、心配になるぐらい誰もやってないゲームでした。

ランキング争いなんてものもほとんどなく、ちょっと気合い入れれば全1、これは深くやりこむことはないだろうな、と思いかけていた機種でした。正直。ホントごめん。

 

転機は天下一音ゲ祭でした。これにシンクロニカがチャレンジ枠として入る、と。

ものはためしだ、と少し気合い入れて予習練習をしつつ、関西大阪はリュエンひよりんの巨塔が打ち立ててあるのを思いつつ、じゃあエリア外か?と。

 

当初は中国四国ブロックだったのですが、これがどうやってもシフトが合わなかったわけです。

そこで調べてみると、岐阜モレララウンドワンがシフトとしてはいけると。

望みを託し現地に向かい、誰にも言わずに勝ち、中部決勝出場の方を全員捕捉し、完全に対策を打つ始末。我ながら人が悪いな、と思っていました。(

 

そして中部決勝。敵はかぜしさん1人だと踏んで、朝一から新世界だけしか練習していませんでした。なんなら姿がバレないように直前まで名駅ナムコで練習し、直前まで飯食って直前までクロスビーツしてました。(

 

驚いたと思います。大阪登録の僕が中部にいるんです。完全に誤算だったでしょう。

決勝までは順当に勝ち、決勝は予想通りかぜしとの対決。読み通りでした。

全ての予習を新世界に振っていただけあり、超僅差ながら勝つことができました。

 

このあと2ヶ月後に幕張に向かい、なんと同じ地元のリュエンくんが優勝をおさめ、晴れて高槻は2人全国決勝経験者を輩出し、「判定が甘い」とまで言わしめるほどになりました。

そして今に至る。ちゃんちゃん。って感じですな。

 

 

 

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いかがでしたでしょうか。

ここまでで8000文字ほど。これでもまだまだ書けてないこともあります。

また機会があれば、ぜひお話しさせてください。

 

ありがとうございました。

質問などはツイッター(@akipedia)にお気軽にどうぞ。

シンクロニカの判定精度の悩み

率直に悩みです。

早グレを起こすなら遅く叩く
遅グレを起こすなら早く叩く

これは当然。
これを繰り返して繰り返して精度を上げていくのがこのゲームのみならず、音ゲーのスコアアップの鉄則です。


じゃあここからが疑問で、
判定の精度を上げるためにはどうするのか?って話になるんです。
判定ラインに飛び込むボールのどこを見るのか。

出てきた瞬間の輪っかから逆算してリズムで取って見るのか。
それとも、飛び込むボールの軌道全体を見るのか。
ボールがてっぺんに来たタイミングから逆算するのか。
飛び込んだ先のTOUCHを見るのか。

リズムで叩くのか、目で見て押すのか
ハイスピは1.4で目で追うのか、1.6でリズム押しするのか

頭で考えすぎて、ちょっとこのゲームがツラくなってきてるのが現実。
でも、ここを超えないと自分の中の判定は絶対に広がらない。
葛藤です。どこまで進めて辞めてしまおうか。

裏ワザがない分、メンタルと技術で戦うしかないのです。
5フレームの世界から4フレームの世界に来ただけで、こんなに苦労するとは思ってもみなかった…。
参っています。以上。

Rezonators 総括

詳しい事は集計のいりむさんが全て書いてくれてるので、僕は僕の視点で総括を。

今のシンクロニカ情勢、正直ユーザーめっちゃ少ないんで絶対参加者少ないと思ってた訳ですね。
それがフタを開けて集客してみたら60人もの方々に参加していただけて、本当にありがたかったです。

その60人が切磋琢磨して競い合い、時には自己ベストなんてぶち抜きで、あわよくば全国トップのスコアを更新しながら大会が推移していく様は
本当に、本当に圧巻でした。

僕は僕なりに(ちょっとリアルが多忙過ぎて詰め切れなかった時期もありましたけど)参加させて頂き、結局準々決勝でひよりんに負けちゃった訳だけど、
相手の得意曲をもってしてここまで追い詰める事が出来たのは本当に嬉しかったです。
あわよくば撃破してビッグビート扱いでチヤホヤされたかったのは事実。笑
でも、自分の成長はハッキリ感じられました。まだまだ全国ランカーに食らいついていける自信が生まれました。

そうそう、全国ランカーが多数出場してくださってて(なんとグルコスの天下一出場者も2名出てくださってるんだよ凄くね!?)、一桁ランカーの自分なのにめっちゃランカー厨出来たのホンマにしびれました。
どう見ても俺はランカー厨。でも幸せ。

公式のキミズさんにも参加していただいて、なんと1周年記念のビデオメッセージでも触れていただいて。感無量とはこのことか。泣いて良いぞ俺よ。
実際にキミズさんを倒したのもコーホーちゃんでした☆テヘペロ☆←

集計のいりむさんにはホントにご苦労をかけてしまいました、巣鴨でチヤホヤするから許してやってね…!

もっとまとまりのない話をすると、準々決勝の対ひよりん。
自分はひとまず埋め作業だけはやったタチなので、ひとまずのところはどんな曲でも勝負できるはずだったんだけど「やっぱり/ヤベェって顔しながら」トリューだったので、ある意味最悪のシナリオでした。
っていうのも、シンクロニカにおける「グリッサンド」って技術が極端に苦手で、このグリッサンドを果たしてどう攻略しようかっていうのが最大の課題でした。
(どこで判定取られてるのかイマイチわかってないのよね)

その苦手と改めて向き合いつつ、今後確実に練習すべき要素でもある密度+ズレ、なおかつチャンスがあるWHAT'S MY NAME?をぶつけたのは
「200回近くやってこのスコア(当時それでも相当高かった)なら確実に自己ベスト近くまでしか伸ばしてこないだろう」っていう根拠のない自信と、「俺ならもっとやれる」っていうもっと根拠のない自信がゆえの選曲でした。

今考えるとなんちゅームチャクチャな理由なんだとは思ったものの、勝算はちゃんとありました。
絶対にこぼさない選曲をした上で、そこそこに良い線いくスコア(当時全国3位まで伸びてました)も出して、トリューも5位とかだったのかな。伸びて。
それで負けたら悔しいけど本望です。ひよりんはまだまだ強かった。

というか、俺に負けたらあかんやろって本人もなってたんやろねえ…w

仮にその後リュエンくんと当たってたら何投げてたって、そりゃあ伸ばしたい曲飛ばしてましたよ。インベーダー?ノンノン。飛ばすなら絶対にコレっての決めてまして、「六兆年と一夜物語」だったんですねえ。
絶対に負けるの分かってるけど、俺が伸ばしたかってん。それだけやねん。

ありがたいことにリュエンくんは無事ひよりんと当たって、完膚なきまでにボコしてくださってて。
高槻てめえエゲツねえな!!ってなってた次第です。俺も高槻やけどさ。

高槻組系組長は今日巣鴨でシカしてるはずです。
高槻組系広報も巣鴨行きます。ペットのぴよりんが組長の肩に乗ってます。たぶんね。

じゃあ!巣鴨行ってくる!